コンタクト
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居住地: Japan
誕生日: 5月 19日
自己紹介文
わたしのプログラマ歴
子供の頃はコンピュータは身近な存在ではなく,もっぱらテレビかSFの世界でしかお目にかかれないものでした。初めてプログラマと呼ばれる人を見たのは,おそらく特撮ドラマ「怪奇大作戦」の「殺人回路」というお話に登場した「プログラマの岡」氏だったと思います。氏の内向的でオドオドとした印象は,ドラマの演出もあって非常に奇異に感じられ,将来自分が彼と同じ職業に就くなどとは当時は夢にも思っていませんでした。
初めてパソコンを見たのは,高校生のときに友人宅で見せてもらったNECのPC-8001でした。
コンピュータが個人でも買える時代になった,というのは素直な驚きでした。
同時に「電子頭脳」とも言われていたコンピュータという代物がどれほどのものか,というのがわかってしまった瞬間でもありましたが。
この頃のパソコンは,スイッチを入れるとBASICインタープリタが起動するものがほとんどで,そのためパソコンユーザはBASICプログラマであることが暗に求められていたと思います。
この頃は,電器店の店頭に置かれたパソコンで,GOTO文による無限ループとPRINT文で画面を文字列で埋め尽くすプログラムを実行させて逃げる,という遊びをよくやっていました。
入学した大学にIBMの汎用コンピュータがあり,大学の授業科目に,このコンピュータを使ったFORTRANの授業があって,思い返せばこれがわたしが受けた唯一の「プログラムの授業」でした。
授業でプログラムの課題をもらった日の夜は,下宿のこたつでプログラミングです。
この頃のプログラミングは,プログラムをコーディングシートという紙に書き,できたプログラムをコンピュータに読み込ませるためにパンチカードに打ち込んで…と言いたいところですが,実際は穿孔位置をシャープペンシルで塗りつぶし,間違えたりしたときは消しゴムで消すことで,一枚のパンチカードを何度も使いまわしていました。
こうしてできたパンチカードを翌日学校に持っていきます。
大学のコンピュータルームの中央にカードリーダーが鎮座していて,その前に人の列ができているのでその後ろに並び,自分の番がきたら持参したパンチカードを読み込ませます。
読み込ませたあと,となりの待合室で待っていると,プログラムの実行結果が印刷されたプリンタ用紙の山が運ばれてくるので,自分のプログラムの実行結果をもらってちゃんと正しい結果が得られたか確認します。
たまに誰かのプログラムに無限ループがあったりすると,係りの人が待合室にやってきて,プログラムを強制終了していいか?と聞いてきていました。
大学を卒業して派遣請負会社に就職して,とある電機メーカーに派遣されました。ここで仕事として初めてのプログラムを書きました。
ここで開発していた製品はマイコン(モトローラのMC6809)による機械制御を行っていて(いわゆるメカトロニクス),このマシンを制御する制御用プログラムが完成するまでの間,開発者が動作確認を行うための使い捨ての制御プログラムが必要ということで,その作成を仰せつかりました。
使い捨て,というところでちょっと凹みましたが,回路図とアセンブラニーモニック表と格闘しながらなんとか完成させました。
回路図に間違いを見つけたので,その間違いを回避するようプログラムを組んで,無事正常に動作させることができました。本番の制御用プログラムはその間違いが原因で動作不良を起こしたので内心「勝った!」と思いましたが,自分のプログラムが間違いを回避するよう書かれていたことが判明したとき「間違いを見つけていたのなら報告しろ!」と怒られてますます凹んだ24歳の夏でした。
発売されたばかりのMacintosh Plusを買いました。初代Macが発売されてからいろいろなパソコン雑誌で取り上げられていて,よくわからないけどなんだかすごいマシンらしい,という印象を持っていましたが,どうすごいのか自分で使って確かめてみようと思ってPlus発売を機に買うことにしました。それで100万も出すのは,若さゆえの過ちというものでしょうか。
このころ住んでいたのが会社の寮みたいなところでしたが,四畳半一間でパソコンを置く場所がないので,追加でもう一部屋借りてそこをパソコンルームにしました。
それからは,会社から帰宅してから深夜まで,ずっとこのパソコンルームに入り浸る日々が続きました。
職業プログラマになりたい,と思うようになりました。本来プログラムを書くのはコンピュータと暇があればできるはずですが,わたしの場合はなかなか仕事とかで強制されないとできないので,職業プログラマになって強制される環境にしよう,ということです。
そして,なるんだったらMacプログラマがいいな,ということで,Macのパッケージソフトで有名な会社の社員募集に応募して,無事その会社に転職できることになりました。ちなみに,後日会社の上司に「なぜ自分はこの会社に採用されたのでしょうか?」と聞いてみたところ,返ってきた答えは「来る者拒まず」でした。
Macの会社に入ったはずですが,割り当てられた仕事はUNIX版のプロダクト開発でした。
会社はMacのプロダクトで有名でしたが,もともとはパソコン用のデータベースを開発することを目的として設立された会社で,当時開発中のデータベースのユーザインターフェース部分を開発している人の下につくことになりました。
また,開発で使う言語はこの頃まだ珍しいC++でしたが,入社当時のわたしのスキルはCすらも怪しかったため,最初の3ヶ月はC,次の3ヶ月はC++を会社で勉強しました。6ヶ月も勉強だけして給料をもらっているということで一時期風当たりが強い時期もありましたが,一年もすると当初慣れなかったUNIXコマンドシェルにも慣れ,プログラムの機能追加やデバッグも支障なく行えるようになっていました。
その後データベース開発は終息していきMac版の自社プロダクトをUNIXに移植する仕事が業務のメインになりました。これは当時台頭してきたワークステーション向けのものでした。当時はワークステーションが低価格化してきて,これにX-WindowとMotif/OpenLookでGUI環境を作ったシステムでパソコンに取って代わろうとする動きがあり,ワークステーションメーカーはパソコンソフトのワークステーションへの移植をソフトメーカーに働きかけていて,その要請に応えたものでした。この業務はWindows 95の登場とパソコンの高性能化によりワークステーションの普及が阻止されるまで続きます。
UNIXの仕事が終了した後は,Mac版ソフト開発をメインに社内のあちこちのプロジェクトを渡り歩いたり,受託仕事で社外に常駐したりしました。
このソフト会社に10年勤めたところで退職し,しばらくお休みをもらいました。お休みしていた間にいくつかプログラムを書いてVectorで公開していました。
三年寝太郎を目標にしていましたが,二年ほどで生活できなくなり,前の会社の専務だった人の会社でバイトしたり,WebObjectsでサイトを作る仕事を請けたりした後,派遣社員プログラマになりました。派遣社員としてこなした仕事は「カーナビのデバッグ仕事」「組込みソフトウエア部品開発仕事」「サーバサイドJavaでブレードサーバ制御プログラム開発仕事」といったところです。
その後ネットの友人が立ち上げた会社にまぜてもらって現在に至ります。
今の会社では,主にWebObjectsを使った業務アプリケーションを作っています。
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